4月1日2009/04/01 17:05

 今日から、新年度。山形センターに、常勤の事務職員が勤務。私の仕事を楽にしようと思っているのですが、今日は、何となく、忙しく動き回りました。
 5月の役員改選に向けて、準備中ですが、公務員人事異動の影響などもあって、二転三転するものもありましたが、ようやく、依頼の作業が終わりました。小さな団体ですが、社会福祉法人の冠を受けていますので、いろいろと複雑な手続きがあります。
 それでも、多くの皆さんから、この無償のボランティア活動に、ご支援、ご協力を頂けることは、幸いな事です。
 相談員のボランティア、資金ボランティア、役員としてのボランティアなど、皆さんの奉仕の心が一つになって、自殺予防を目的にしている、この「山形いのちの電話」の活動が支えられています。
 本当に有り難い事です。感謝です。
 以前に、ブログ訪問者からの支援金があったことを書きましたが、最近も、どういう関係か、分からない方からの、ご寄付を頂きました。私どもの知らない所からも、ご支援を頂いている事は、確かな事であり、嬉しい事です。

ああ、目が痒い。2009/04/03 15:42

ようやく春らしい温かい日になりました。今朝の千歳山には、コート無しで登る事が出来ました。
 ただ、今日は、花粉が非常に多く飛散しているようで、目と鼻が痒くて大変です。私の目は、あまり丈夫でなく、擦るとよくないようなので、出来るだけ我慢するのですが、やはり苦しいですね。
 こんな時、聖書の言葉が聞こえてきます。
 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」
 心の眼が濁ってしまうと、もっと暗く、苦しくなるんでしょうね。

 また、目に関しては、次のような言葉もあります。
 「あなたは、他人の目にある、おが屑が見えるのに、自分の目にある丸太に気付かないのか。他人に向かって、「あなたの目から、おが屑を取らせてください、どうして言えるのか。自分の目に、丸太があるではないか。」
 すぐに、人を裁いてしまう自分が見えます。政治家たちにも、読んでもらいたい箇所です。

在俗牧師、希望に向かって前進2009/04/05 07:35

今日の日曜日、カトリック教会では、枝の主日として祝い、礼拝をします。これからの一週間を聖週間として、自分を吟味しながから、復活祭の喜びを待ち望みます。
 私の所属しているプロテスタントの教会では、今日が棕櫚の主日、そして、これからの一週間を受難週として、主の苦しみを思い起こしながら、復活祭を待ち望みつつ過ごします。殆んど、同じですね。
 私が、毎年めぐってくる受難と復活のこの祭事を、こんな風に過ごすようになってから、50年以上経つようになりました。
 勿論、本業は、牧師なので教会を中心に活動する事が多かったのですが、そこが、世俗的な牧師、その枠の中だけに留まる事がありませんでした。
 「原爆赦すまじ」、「再軍備反対」の意向から、平和運動に参加、更に、人の幸せ、平和と福祉を実現するには政治の力が必要と考え、政治家に転身。暫くぶりで教会付の牧師に戻り、おとなしくしていましたが、盛んになってきたブライダル産業に、偽の牧師が多いと聞き、本物の方が良いだろうと、ホテルなどの手伝いをしました。
 そして今、自殺者が多くなり、何とか、対策が必要だと、叫ばれだした時、高齢をも顧みず、「山形いのちの電話」の事務局長を引き受けています。
 受難と復活、苦しみと希望、これは、表と裏であり、一体であると思います。私ども一人一人の人生においても、又、社会やいろいろな組織の運営などにおいても、同じではないでしょうか。
 苦しみがあったら、忍耐して、待ち望みましょう。喜んで待ち望みましょう。先に希望があります。
 在俗の牧師は、もうしばらく、世の中の苦難の出来事を見ながら、その先にある希望に向けて、前進しようと思っています。

受難週初日にダウン2009/04/07 17:04

前回のブログ(5日)で、受難週のことに触れましたが、あの日の朝の礼拝で、体がだるく、讃美歌が歌えませんでした。花粉症がひどいのかなと思ったり、午後になっても力が回復せず、これはもしかすると風邪を引いたのかもしれないと、考えたりしました。ところが夜になると、発熱があり、これは、二度ほど罹患暦のある、あの病だと予想しました。その夜は、ゆっくり休めず、頻繁に、トイレ通いです。6日の朝、泌尿器科の医院に行って診察をしていただきました。前回、診ていただいたのは、6年前でした。診断の結果は、やはり、前立腺炎症でした。その数年前には、同じ病気で入院したこともありましたので、症状、対策は、心得るようになりました。昨日は、医院で、点滴をしていただき、ゆっくり休みましたが、夜になっても、熱が下がらず、大変でした。今朝は、大分、元気になり、予定の事務局会議を無事に終えました。
 午後、もう少し休んでいようかなと思っていたら、警察から、電話があり、5年前に、自宅に泥棒が入り、捜査をしてもらいましたが、犯人は見つからず、まもなく時効を迎えるので、その時、犯人が残していった遺留品の所有権の放棄をお願いしたいとのこと、休まずに待っていたのですが、お出でなったのは、5時過ぎで、結局は、休めませんでした。
 受難週、最近、私の過ごし方が、ちょっと生ぬるくなっているので、もう少し、主の苦しみを思うこと、人の苦しみ、悩みに共感できるような人になれとの、厳しい教訓かもしれないと、考えました。
 事務局で、目の病の話は、した事がありますが、前立腺のことについては、高齢者には誰でもなり易い病であり、そんな事は話さず、毎朝千歳山に登山する、元気爺さんぶりを宣伝していましたので、事務局長の更なる弱みを知り、安心させたようでした。
 それにしても、受難週の初日に、ダウンするとは、何と言うことでしょうか。

最低 (?) からの前進2009/04/09 18:15

 今日は、イエスが弟子たちの足を洗い、隣人に仕えるような生き方をするようにと、模範を示しながら、教えてくださった日です。又、最後の晩餐の記念日でもあります。まだ、病が完治せず、苦闘中ですが、今日は、いろいろな事がありました。
 毎日新聞の山形版(4月9日)で、先日発表された、ライフリンクの調査結果について、(このブログでも、その調査結果について取り上げたことがありましたが)、自殺対策への取り組みが全国で最低であるという結果について、県の担当者を取材した記事が掲載されていました。清水代表の、「知事が旗振り役となり、部署間で連携を取り、地域全体として取り組んで欲しい」との要望を書いています。私も、以前から、繰り返し、要望してきた、県への期待です。今日、県の担当者から電話があり、いのちの電話に対して、県が出来る具体的な支援のあり方についての、いろいろと話し合いました。これが、順調に実現に向かうことを期待しています。
 又、山形県共同募金会から、いのちの電話の活動を経常的に補助するような方向で、計画を立てたので、要請書を出すようにとの連絡を受け、事務局長さんとお会いし、いろいろと、話し合いました。主に、広報関係の活動に対して、継続的に、ご支援をいただけたら、ありがたいと思っています。
 7月4日午後の、公開講座、講師の、秋田大学医学部長、本橋 豊先生から、演題についての、連絡がありました。 「地域における自殺対策の推進ーいのちを守る 民・学・官の協力ー」 です。
 更に、これは、一般公開ではありませんが、相談員のための宿泊研修会があり、その講師に、横浜の有田モト子先生が決まり、吉村美栄子知事にも入っていただき、演習講師を兼ねながら、皆さんとの交流をお願いしながら、いのちの電話へのご理解を深めていただく事になっています。
 警察庁の発表は、既に、昨年12月分まで数値が、確定していますが、厚生労働省の人口動態統計による発表は、今週、内閣府より出された11月までです。それによると、山形県は、相変わらず、前年より、14人増えており、自殺率も、全国で、6位と、相変わらず、高い位置にあります。

 明日は、全国一斉、24時間、自殺予防・フリーダイヤルの日です。
     4月10日(金) 8:00 ~ 11日(土) 8:00 まで。

      0120-738-556

復活の力により !2009/04/11 18:08

 本日、 山形市も例年より大分早く、桜の開花宣言がありました。
 昨日は、キリストの十字架死の記念日、明日は、復活祭(イースター)、その間に挟まれた今日、主の体は墓の中に安置されていて、教会では、行事のない空白の日です。
 私は、病と闘いながら、受難週を過ごしましたが、昨日の検査では、ほぼ全快、元気になりました。明日は、イースターですから、新しい復活の力を頂いて、来週からの仕事に励む事が出来ると思います。
 千歳山には、今週、一度も登りませんでした。明日も含めて八日間も休むのというのは、毎日登る事を習慣にしてからは、初めてです。明日の朝は、春の一斉清掃日、どぶ掃除です。
 千歳山仲間の皆さん、13日(月)の朝からは、いつものように登りますので、よろしく。
 今日は、山形いのちの電話の運営委員会がありました。これまで、いろいろな課題があり、苦労している事を盛んにアピールしましたが、相談員不足を除けば、だんだん、良い方向に進んでいて、光が差し込んできたのではないかと、考えるようになりました。望みを持って、前進して行きます。

小さな変化に惑わされる事なく。2009/04/13 19:42

今日も暑い一日でした。
 千歳山には、暫くぶりで、元気に登りました。休んでいる間に、街中も、里山も、花のシーズンに変わっていました。麓の千歳山公園の桜は、今朝は、三分咲きぐらいでしたが、今日の暑さでは、満開になったのではないでしょうか。それにしても、小さいながらも、山一面に咲いていたあの桜(山桜 ?) の少なくなっているのには驚きました。登山道から、見えるものはせいぜい10本ぐらいでした。例年ですと、数えるのも大変なくらい、100本以上は見られた筈です。今年は、去年の、松の植栽のため、下刈りをして、殆んどなくなっていました。暫く前に、千歳山仲間が、例年咲いている所に、福寿草がなくなってしまったと嘆いていましたが、木蓮の花も少なくなったり、模様が、完全に変化してしまいました。新しい美しさを捜し求めて、歩こうかと思います。
 今日の午前中は、調髪、午後は、2週間ぶりに、碁会所で遊んできました。週に一度の碁会所は、今の私の生活で、憩いの時、気分転換の時になっています。
 何事もないような日常の生活の中に、見方によっては、大きな変化があるようです。その変化に惑わされて自分を見失うことなく、私どもを導く、天からの光をしっかりと見つめながら、いつも新たな希望を持って、与えられた小道を一歩ずつ、前進して行きたいものです。、

ライトアップは必要ですか。2009/04/15 17:17

 桜の花が満開、方々でライトアップ。祭りの好きな方々に、異議を唱える積りはありませんが、自然をそのままに楽しむことが、普通でありたいとも思います。
 最近、美しいものは、なんでもライトアップ。ちょっと、過ぎてはいませんか。樹氷、滝、お城、花、等々。
 千歳山の麓にある公園の、大きな桜もきれいですが、登山道傍の小さな山桜もきれいです。一輪、二輪と小さく咲き始める頃の出会いは、楽しみであり、毎朝歩く者たちに、新鮮な息吹、新しい力を与えてくれます。頂上付近に、名札があったためか下刈りから逃れた、奥丁子桜、間もなく咲くと思いますが、これを見るのも楽しみです。
 山歩きをしていて、小さな草花に出会う事は、街中で、きれいに手入れされた花を見るのとは異なる感動を覚えるものです。
 人の生き方も、ライトアップされた華やかな人生を生きる人もいますが、皆がそうではありません。目立つことがなくとも、静かに、ありのままの生き方を全うする人たちもいます。そういう人たちが多いのです。
 たとい、弱くとも、小さくとも、天からの光を受け、ありのままに生きる人たちが、この世界を作っているのではないでしょうか。
 いのちの電話に聞こえてくる声は、自然の中で、小さな草花に出会う感動のようなものかもしれません。そういう耳、心の眼を失くさないようにしたいものです。

皆で生きる社会2009/04/17 14:37

「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」

 昨日、知的障害者のために作業所を作り、働く場を提供している、社会福祉法人「手をつなぐ会」の設立(平成19年)と、「ワークランドべにばな」改修工事竣工(今春)の、式典・祝賀会に、出席してきました。
 式典の方は、型通りの進行でしたが、祝賀会の方は、施設利用者が挨拶をし、お互いに紹介をし合ったり、アトラクションの歌などもあり、実に楽しい会でした。共に存在し、共に生かされている社会を実感しました。
 この作業所は、昭和33年頃から、いろいろな苦労、移転、合併などを繰り返しながら、運営されてきたものです。ようやく、その苦労が実を結び、しっかりした施設になってきたようです。
 現在、就労継続支援B型利用者が、41名、生活介護利用者が、9名、職員12名の体制で運営されています。
 福祉に関わる活動をする者にとって、最初に引用した言葉は、とても大切な教えですが、これを教えられた方が、隣人とは誰か? と尋ねられた時に、言われました。
 同じ民族とか、仕事、宗教、政治とかによるのではなく、又、隣にいるということが問題なのではなく、隣人になることが、大事であると。
 Be Friend 、Be-friending が、大切なんですね。

 いのちの電話も、先ず、電話をとることが必要ですが、その後、聴く、共感する事が、もっと大事になってくるのだと思います。

喪失の哀しみ2009/04/19 08:27

 私どもの人生において、何が起こるのか、分からない事が多いように思います。計画を作り、目標に向かって、前進、努力する事は大切な事です。私ども人間には、自由が与えられており、いろいろな場合に、自らの意志で、選択することも、尊重されています。
 しかし、どんな計画も、どんなに努力しても、思い通りにならない事もたくさんあります。
 こんな会話を読みました。「山形はどこにありますか?」 「日本にあります。」 「日本はどこにありますか?」 「アジア、世界の中にあります。」 「世界はどこにありますか?」 「宇宙の中にあります。」 「宇宙はどこにありますか?」 「神さまのみ手の中にあります。」
 人間の知恵では計り知ることの出来ない出来事が起こります。たとえ、その時、人には、理解できない事でも、委ねなければならない事があるということです。
 ごく最近の出来事です。40代半ばの女性が、旅行に出かけました。元気に働いていた会社員の夫が、朝、心筋梗塞のために急に苦しくなり、救急車を呼び、病院にいきましたが、間もなく、亡くなりました。想像も出来ない急な出来事に、妻は、夫の死に立ち会うことも出来ませんでした。旅先で知らされた夫の死に、彼女の悲しみ、その喪失感は、どんなに、身近な人でも、理解したり、支える事の出来るようなものではない程、大きなものだと思われます。神さまからの慰め、支え、癒しを求めて、祈るだけです。 こんな時、どんな慰めの言葉があるのか、私には分かりません。神さまのみ手に、委ねる以外にありません。
 エンディングに備えよと、言われますが、先ず、人生そのものを委ねることから、始めなければならないのでしょうか。